何故寂れに私は惹かれるのか

人も訪れることのない殺風景な汚れた沼に、何故か惹かれるものがあります。
時折そんなところへ行って、ただしばらくボーっとしています。

寂れた沼

別に寂しいのが好きだとかそんなのじゃないですが、でも、似たような人は意外に沢山居られるように思えます。

何十年も前にの書物に、葛生という町を訪れた劇画家の巨匠柘植義春氏が、あまりの殺風景さに、こんなところへふらっと訪れて泊まってみるのも悪くはないと語って居られるのを読んだことがあります。

柘植先生は、丹沢辺りの寂れた温泉地の川筋にある、これまた朽ち果てたお堂を見つけて、ここに住んでみたいと思った----などとも述べられて居ります。

余程その雰囲気が好きなのでしょう。

柘植先生には、つげ忠男という弟さんが居られまして、この方も味のある劇画を描かれる方でした。

作品の中に--河童の居る川--と題するものがありまして、東武野田線の、運河とか江戸川台駅辺りのことをチラッと述べられて居ります。

釣りを趣味にする、三流薬品メーカーに勤める人間を描いているのですが、私はそんな世界に随分憧れました。

登場人物の、冴えない資材係長が、河童を見たと言って原っぱに消えて行くのですが、この作品を、私は何度読んだか知れません。

高級な感想は無意味だと思います。しかし何故か、冴えない会社、寂れた町、寂しい運河、たまの居酒屋で社員同士が愚痴る----そんな世界に妙に惹かれるのです。

運河周辺のことを----いくつかの商店はあるけれど、賑わいはまったくなく、住宅地でも農地でも工場地でもなく、平凡な民家がパラパラと存在する奇妙な雰囲気だ----と述べられて居ります。

その雰囲気に惹かれて、私は運河を訪れました。柏から乗った野田線の、随分退屈なのんびりした走りにうんざりした記憶があります。

寂れていると言うよりは、そもそも何もないところなのでした。しかし今は、開発が進んで、当時に比べるとそれなりに綺麗な光景に変わっています。

そんな私だから、周りからは不幸に見えるらしく、敢えて話したくもない古い知り合いが、毎年暮れになると手紙をよこして、なにやら語ってくるのです。

書かれていることは、概ね自分がどれだけ立派であるかを述べていまして、日々楽しいことを連ねてありまして、人助けをあれこれやっているので、君も協力してくれだの、幸福になるためには心を入れ替えて教会に通え----とか、とまあそんなことばかりです。

聞きたくもないハイレベルを演出して、この上から目線は鼻持ちならないのですが、本人はそれが理解できる情緒レベルではありません。

従って、会話レベルが合わないので話したくもないのですが、今年も暮れになって、案の定手紙が来ました。

昨年もそうでしたが、今年の暮れも、やれやれの思いであります。

それはともかく、年末であります。

皆さまどうか、良いお年をお迎え下さい。

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